言葉を尽くしても



わかりあえないことがある、
そんなことを知った20代後半です。

私は昔から性善説を信じているタチで、
みんな本当はいい人なのだから話せばわかりあえるよ
と本気で思ってきました。

けれど経験に経験が重なっていくうちに、
あれもしかして、善意のみでお話しをしてもわかりあえないことってある、、、?
と気がついてしまいました。

と同時に、それも仕方のないことだとも思えるようになりました。

私は昔から自分の話す言葉に少しばかりのこだわりがあって、言うなれば、私は私の言葉を信じているのです。
慎重に慎重に、一番ぴったりな言葉を探して(例えば:ぴったりという言葉がここでは一番ぴったりなのです)、それを相手に渡します。
そういうことをずっとずっとやってきたつもりです。
だから、感情が昂ぶると言葉が出なくなったりもします。
冷静じゃなくなると言葉選びが下手くそになるし、伝えたいことの優先順位をうまく整理できないからです。
普段はもうそれはそれはひどく流暢に話せるはずの言葉が、驚くほど詰まるときがあるのです。

けれど、そんなこだわりを持っていようがなんだろうが、相手に伝わらないときはあります。
むしろこだわりを持たない方が伝わる説すらあります。
そんなときは、それなりに絶望します。
自分の言葉に自信が持てなくなる。
ああ、私が信じていたものは間違っていたのか、恐ろしくてたまらなくなります。

でも、それは仕方のないこと。
育ってきた環境が違うから、と山崎まさよしも言っています。
人間は、自分の心を守るために「仕方ない」を覚える生き物だと私は思っていますが、なんだったらそれが一番仕方のないことです。

仕方ない。仕方ない。仕方ない。

みーんなとお友達になれると思っていた時代は終わりです。
なれない人もいる、たぶん。
でも、お友達になる努力をしないというのは、違う。

私のことが嫌いな人や、私の言葉が理解できない人、私の信念を笑う人、、、そんな人はたくさんいるでしょう。仕方ない。
でもいい、がんばってみる。
がんばってみて、ダメだったら諦める。

「諦める」

この部分が、わかりあえない人がいることに気がついた私が身につけた次のステップです。

諦める、でも諦めるまでは精一杯がんばる。
本当の願いは「みんなと仲良くなれたらいいな」のままだけれど。

また明日。

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藤村聖子

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